御紹介−信仰とは

  • 2012.03.12 Monday
  • 23:59

久々に普通な事
http://dennkiya2.exblog.jp/14838737/

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです
http://exorienteetlux.ni-3.net/Entry/83/



信仰とはこういうものなのですよね。本当に自分の考えが違うかどうかが、ブログを通してはっきりと教えられます(勿論、聖書が一番なんですが)。

どこかで違っていたら、軌道修正して下さいネ〜(笑)。

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皆さんへ

  • 2012.03.12 Monday
  • 22:01

私達は今迄(ニッポン)キリスト教界を批判してきました。それは「いのちの御霊の法則」を知ろうともせず、ただアダムにある肉によってキリスト教と言う名の宗教に成り下がってしまった兄弟姉妹に、私は少しでもこの「十字架の死と復活」と「いのちの御霊の法則」を知っていただき、共にその恩恵に与かる為でした。

しかし、東北関東大震災から一年が過ぎ、改めてこの一年、また数年前の事共を想い起こすと、どこまでその「十字架の死と復活」と「いのちの御霊の法則」を伝える事が出来たかという反省と共に、どこまでその「みことばに活きているか」を考える機会になりました。

私達の集会(教会≒エクレシア)では、機会のある度に「自分の思いや考えを降ろす」「十字架」を標榜してきました。各自がそれを耳にタコが出来る程、何度繰り返し聞かされてきたでしょうか。

(ニッポン)キリスト教界との相克と共に、日本や世界が取り巻く状況とキリスト教界との相克をも照らし合わせると、ますます真理が明らかになり主の御名が崇められる事を願わずにはいられません。
今私は、兄弟姉妹の動向やブログ記事にて、本当に主の喜ばれる事、また、主が祝福したいとの思いを願われている様な気がしています。しかし当然乍らそこには、この世の霊や支配者が暗躍している事を忘れてはなりません。そして何よりも主のみことばに忠実さが求められているのではないでしょうか。みことばを無視した教会(集会も含む)がどうなって行くのか、自ずとしれて行くでしょう。また、(ニッポン)キリスト教界(会)には沢山のその様な牧師、指導者が居られる事は、かなりの人達が知るところとなっています。

私達は一体ニッポンキリスト教界を何の為に批判してきたのでしょうか。私の考え=「十字架の死と復活」と「いのちの御霊の法則」=が侮られ、キリスト教と言う名の宗教に摩り替わったからではなかったのではないでしょうか。

かつてDr.Lukeはこの様な事を言っていました。「霊的に敏感であっても、常識が無いのはオカシイ」と。今まさにその様な事が行なわれようとしているのかもしれません。どこででしょうか。それはあらゆるキリスト教界でです。勿論、そこには例外はありません。

私の知り合いと昨年十年振り位に再会した時に、「来る(行く)」と言っていたので前以(も)って連絡してから、と言っていたのにも係わらず、当日に連絡をよこし参加してみました。私はハッキリ言って、参加する前にネットにて聞いてから来てほしかったのです。ところがどうでしょう。新来者にも係わらず何の配慮も無く、普段以上にあの気違いじみた様子・・・。当然居るのが辛くなるのがオチです。そそくさと帰ってしまいました。

以前バプテストに未だ所属していた頃に、某ペンテコステの教団の水曜礼拝に参加してみました。礼拝の後皆一斉にあの状態・・・。否定はしませんが、異常な雰囲気にただただ圧倒・・・。当時まだ現われませんでしたので、ちょっとどうかな〜と思っていました。

それこそ、ニッポンキリスト教の強制と何も変わらないのではないでしょうか。その人の行動が、信仰から出ていないのに、罪を犯させようとしているのです。(ローマ14:23)当人は気持ち良く心地良いものなのかもしれませんが、何も知らず、ただその説明が本当かどうかも吟味もさせずにいるのは、その辺のカルトと何も変わりません。これが、今年のスローガンなのでしょうか。一体彼等はこれから何を目指そうとしているのでしょうか。知らない人から見たらただの気が狂っている集団としか見られないでしょう。そんな所に誰が入りたいと思うのでしょうか。そんな所に「十字架の死と復活」や「いのちの御霊の法則」があるのでしょうか。

いずれ決着が付くでしょう。みことばや忠告を無視した先がどうなるかを。

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言(の賜物)を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を(貧しい人たちに)分け与え、また私のからだを焼かれる(誇る)ために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢にもなりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし(おおい)、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 コリント13:1−7

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことはしてもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。・・・私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。 コリント10:23,24,29,30

何を見ていますか

  • 2012.03.10 Saturday
  • 06:47

見るべきものは
http://ameblo.jp/ik-hoshino/entry-11187063364.html
星野さんの記事からの抜粋です。

見るべきものはキリストである。
しかし、見てしまうものは、今の状況であり、世であり、世的な評価であって、その中に埋没してしまう。
天に目を留めていたい。
それには自分の持っているものを捨てなければならない。
今日読んだオズワルト・チャンバースの文章にこのように書かれていた。
私たちの持っているものを手放し、まずすべての口実を捨てなければならない。
神が私のうちに価値を認めてくださるのではないかという考えをすべて捨てなければならない。」
何か認められるのではないか、私はこれができるではないか、などことごとく捨てなければいけない。

(以上、終わり/太字、下線、カラーは当筆者)

これは私達一人ひとりが捨てなければならないのは当たり前の事でしょう。
それは牧師、メッセンジャー、長老、執事から一般信徒までの、キリストを信じる信仰者に対するものです。これには例外は被造物の人間ならば、誰一人いません。「自分の持っているものを手放すのは一般信徒だけではなく、牧師やメッセンジャー、長老・執事も全てが含まれるのです。
今私自身は、あらゆる意味で曲がり角に差し掛かっているいる様に思われます。この思いが空振りに終わるか、それとも憂慮した様な状態になっていくのか、主と共に見極めたいと思います。

新しい歩み

  • 2012.03.08 Thursday
  • 00:00

昨日より遂に花粉症の症状が出始めた。

明らかに風邪の症状とは違う。

今日はクシャミに鼻水の症状、今から鼻詰まりがし始めた。


先月より新しい職場で働き、食堂でのボリューム、値段も前職とは雲泥の差がある。

昨日より同じ職場での異動をして、身体は本当に楽になった。

朝は徒歩とランニングで出勤。

おかげで5kg以上の体重ダウン。

体が軽い、かるい。笑



これから信仰的にも何かしらの新しい歩みが始まりそうである。

今迄とはチョット違った感じでの歩みになりそうで、期待をしている自分がいる。

やはり同志がいるのは心強いものだ。

これもエクレシアの中にいるからなのだろうか。

私には正直未だよく分かっていない。

38年間の荒野か神の国の臨在か

  • 2012.02.26 Sunday
  • 00:00

聖書を読んでいるからといって聖書を知っているわけではない。知識がいくらあっても聖書を知ったことにはならない。つまりイエスのリアリティにはいっさい触れていないということが多い。だから、イエスは「あなたがたは、わたしのもとに来ようとしない」と言われたのだ。

このリアリティの欠如を、勤勉さや奉仕や善行や辛抱や修行で埋め合わせようとするのだ。習慣や儀式や数やイベントはフェイクには欠かせない。






まさしくその通り!!! 上記はlastsaltさんのブログhttp://lastsalt.exblog.jp/14725233/より抜粋したもの。しかしこれは自分自身にも言える事。

どれだけイエスのリアリティーに迫っているのかと云えば、かなりの部分で勘違いか(チョー・ヨンギなど)、(ニッポン)キリスト教の様に真理を否定するか、或るいは何処かの誰かサンに媚びるかの、どれかであるのが実態なのが、何とも情け無い・・・。
クマ郎さんの「クリスチャンになるには」シリーズも、大いに参考になると思います。
http://8125150.seesaa.net/

人はどうしても、堂々巡りしてしまう習性がある様だ。あの出エジプトしたヘブライ人もそうだった。神やモーセを信頼せず、神に求めず、常に自分の思いを満たす事でいっぱいだった。従って、残りの38年間もあの荒野で堂々巡りをしてしまったのだが、幸いな事に雲の柱、火の柱に導かれ、そこで従順を学んだと思われるのです。何故ならば、雲の柱、火の柱が動かなければ、民は旅立たなかったと書いているからです。イエスのリアリティーを体験していれば、何処にいようとも牧師やリーダーと呼んだり呼ばれる人達に、媚びたり自己憐憫したりする必要は無いのです。ハレルヤ! たとえ一人でも、家族と居ようとも、教会の中で独りぼっちだとしても、そこは神の国なのです。ですので、更にイエスのリアリティーを求め続けて歩みたいと思います。


http://exorienteetlux.ni-3.net/Entry/71/より抜粋

「これは救いとは別の問題です。あなたが神に対してどれだけ価値ある者と なるかは、これによって決まります――神に敵対するこの宇宙のこの霊の軍勢の領域で、あなたは神に対していかなる価値があるのでしょう? 悪魔はあなたのこ とをどれだけ考慮しているのでしょう? あなたは悪魔の王国に対してどれだけ脅威となっているのでしょう? 

あなたがどれだけ多くの奉仕や集会に参加している か、どれだけ多くのメッセージを与えているか、どれだけ多くの活動をしているかは問題ではありません。こうしたキリスト教の種々の活動はすべて問題ではあ りません。この暗闇の悪の王国に対して、あなたがどれだけ多く衝撃を与えているかが問題なのです。まさにこれによって、神に対するあなたの価値が決まりま す。

ですから、悪魔があなたを散々な目にあわせて、あなたを要注意人物と見なしていることをあなたに知らしめる時、むしろ慰めを覚えて下さい。それは、あ なたが神にとって価値ある者であることを示しているのです。しかし、私たちは常にこれを覚えているわけではありません。私たちが悪魔の手の下でひどく惨め な時を過ごして打ちひしがれる時、私たちは「悪魔は何と恐ろしい邪悪な者なのだろう」と思って、その思いで一杯になってしまいます。そして――これは謙遜 の一種なのかもしれませんが――結局のところ、自分は何かしら重要な存在であることを忘れてしまうのです。


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神、エクレシア(兄弟姉妹)、人のそれぞれの愛

  • 2012.02.16 Thursday
  • 21:20

「コリントにある神の教会へ。すなわち、私達の主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めている全ての人々と共に、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた方々へ。」コリント1:2

主に謙(へりくだ)る事

  • 2012.02.10 Friday
  • 10:32

男よ、お前が悪いのだよ! その1、2
http://www.logos-ministries.org/blog/?p=2964
http://www.logos-ministries.org/blog/?p=2968

ですから、これは単に男の情欲だけの問題ではないことです。性的嫌がらせの被害者は、女性のみならず男性もいるとのことです。なぜなら、その根底に男女に関わりなく「自我の増大」があり、それを満たすための「支配欲」がありますからです。そして存在感の弱い人、「おとなしい人は加害者にはならない」ということではなくむしろ、自分よりも弱い人を捜していて、その相手に「自我をぶつけていく」ということを行ないます。しかし自分は弱い者(劣等者)であると思い込んでいるので、自分が加害行為をしている意識はまずありません。

ですから、性的虐待のみならず、他のいろいろな虐待やまたは支配関係の中で、共通の問題が横たわっているのです。

終わりの日の困難さは、第一に「自分を愛する」ところから出てきます。自己愛、これこそが問題の根源です。自分の上に権威がないのです。自分が一番であり、自分が神なのです。そして現代は他の社会的規範などで抑えられていた権威が取り除かれ、自我が制御されることなく漏出することによって、諸問題が噴出しているのです。

私はダビデが大好きです。ヨナタンがなぜダビデを愛していたのかがよく分かります。その反面、サウルが嫌いです。いや、サウルに自分の醜さを見る、と言ったら良いでしょう。彼はまさに、今の言葉で言えば「パワー・ハラスメント」の男でした。彼は元々おとなしい人でした。臆病でさえありました。けれども一度、権力の座につくとたちまち高慢になりました。最後まで自分の非を認めることができませんでした。言い訳を言い続けました。認めたようにふるまってもすぐに態度を翻しました。そして、自分が認められていないと被害意識を抱きながら、

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。(詩篇51:4)」

サウルが神の前に出ると言う経験がなかったのと対照的に、ダビデは初めから神との交わりが中心となった生活を送っていました。そして自分が犯した過ちも神の前で告白しました。神の前に崩れ落ち、泣き悲しみ、悔いる心、この砕かれた魂こそが、男らしいのです。サウルはそれが最後までできませんでしたが、ダビデは行なったのです。神の裁きを甘んじて受け、けれどもその裁きよりもさらに根源にある神の憐れみを信じて、神の前に出ました。責任をただ自分にあることを認め、自分が子供のように小さくなりました。

このように自分の弱さを認めるのです。弱さと罪を認めることは、ものすごい勇気の要ることです。その勇気こそが、「万物をあなたに支配させる」という意図で神が創造された、その全責任を自らが担うという人間本来の姿、または男本来の姿に回帰することなのです。ダビデも、罪を告白した後の姿は弱くなりました。その家に、彼がかつて犯した罪(姦淫と殺人)が蔓延しました。全然格好良くありません。でも、これこそが神の前では格好良いのです。自分が弱くなること、これこそがキリストの恵みが完全に現れ、その力が働く時です。

他人のせいにしない。そして果敢に神の前に出て行き、自分の心をすべて明け渡し、泣きじゃくってもいいから祈る。そして神によって心を柔らかにしていただく。その柔和さで、弱い人の弱さを担います。

ですから男たちに問いたい、「あなたに友はいますか?」私自身も恐れるのは、交わりを失うことです。他者や自分の属しているグループなどに問題を感じたとしても、その関係を断つことは致命的であると考えています。そんな批判ができるほど自分が優っているのか?という、自己のうぬぼれに対する警戒も必要です。「交わる」ことは、直、へりくだりにつながります。

(抜粋、終わり/下線は当筆者)

最後の一文が気になります。
確かにこの場合、関係を絶つ事は致命的に、良くないでしょう。何故ならば、暴走してしまう可能性が大だからです。また懲らしめを受けさせる事が出来ないからです。では、所属していても懲らしめを受けるハズが、実際には無い場合もある訳です。その様な場合はどうしたら良いのでしょうか。

「ローマは一日にしてならず」とも言いますが、「キリスト者としてキリストの似姿」に変えられるのもまた、しかりです。しかし、神の義と愛と、あの悲惨な十字架刑をキリスト者が本当に知っていたのなら、人間として、男として、実行が出来たでしょうか。いいえ、それでも出来るのが人間なのでしょう。

コンビニで売っている本にこんなのがありました。
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日本は勿論の事、世界、特にヨーロッパの拷問、処刑道具を集めて書かれていました。
その中には、異端審問や魔女狩りのものもありました。なんとまあ、おぞましい道具の数々が、ありとあらゆる手段によって、殺す事よりも苦痛を長く味わせる為に存在しているのです。

特に下線の部分は、沖縄(琉球)やアイヌ、在日他民族、黒人、被差別部落出身者、病気患者(水俣病、ライ病、足尾鉱山鉱毒事件など)、放射能汚染地の人々などに対する差別に、十二分に成り得る事です。
普段から私達はあらゆるストレスに生き、ハケ口を求め、そして何かあった時に、被害者同士、傷付けあったりしてしまいます。

これらが、アダム以来の罪の報酬、結果なのです。

そこで肉の愛を強調したり、実践しても何の意味も成さないのは、お分かりだと思います。

もうすぐ・・・その2

  • 2012.02.09 Thursday
  • 11:55

オバマ・ヒットラー
http://exorienteetlux.ni-3.net/

オバマとヒトラーの共通項:「自分はクリスチャンであり、社会正義のために戦う」。

キリスト者は社会正義の実現のために生きているのではない。またオバマが強調するInterfaithのために生きているのでもない。欺瞞はかくのごとく、堕落した人間の知性から生まれる。私たちは絶対的かつ排他的にキリストのために生き、そして死ぬ。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。−コリント5:15

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。−ピリピ1:21


東洋からの風の便り
http://exorienteetlux.ni-3.net/
ひとことより
2/8(抜粋)
生まれながらの人間の作り出す宗教性、道徳性、それ以上に抜きがたい業(ごう)はないのです。



お分かりだろうか・・・。
最初に断わるが、何も反対している訳ではない。むしろ、何かに捕(とら)われて、そこからキリストとあまり結び付かない様な気がするのです。
毎回同じ様な仲間内だけでのお祭の様な集会。午前に集会(兼学び?)を開き、午後はデモという、決まりきったワンパターン・・・。どう仕様も無いのかもしれないが、何とかこのリベラル的な社会現象とでも言おうか、この運動とそして福音・十字架的な、社会的に無関心的な現象とが、上手く結び付かないものなのだろうか・・・・。どちらにしてもギャップがあり過ぎると思う次第・・・。

自由になるという事

  • 2012.02.07 Tuesday
  • 00:00
聖書と福音
http://biblegospel.org/

「偶像から創造主に立ち返る」より
http://biblegospel.org/zen2/z619.html



本日の一冊より
http://www.kingdomfellowship.com/diarypro/diary.cgi?no=2709
閉鎖社会の共同幻想に思う
http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing31.html


http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120205/crm12020522450008-n1.htm
日曜日の夜、大分県日出(ひじ)町の主婦が逮捕された。
スーパーの駐車場に止めた車から、わずか2歳の足が不自由な女の子が行方不明になるという、ショッキングなニュースが飛び込んで来たのは、昨年の9月であった。数分程度の出来事で、母親は結果的に猿芝居をしていた事になる。
旦那さんは一週間以上も出張で居ない事も多いらしく、また引っ越してからそんなに月日が経っていないせいもあってか、周りとあまり話もしなかったらしい。
子供を殺す前にもっと、何処かに相談したり、対処出来なかったのかと思うと、本当に悔やまれる。


さて、私達も同じ様に、何かしらの問題を抱えて生きている訳だが、この問題をそのままに放置しておくのか、主に持って行ってしまうかで随分違う。まして神の子とされる資格を与えられた私達は、主を信頼していなければならないのは言うまでもない。そうでなければ、日々の生活はノンクリスチャンの生活と殆んど差異は無い事になるからです。
主を信頼し、主が最善を成される方である事を信じ、どれだけ私達は主に委ねているかを思い知らされるのです。

そして意外にも、自分の手元にあらゆる問題を手放さないで、主の下に行く事が多い様に私の体験では思います。手放しているつもりなのに、主から見たら未だにしっかりと自分の手に握っている事を思わずにはいられません。それは、クリスチャン、ノンクリスチャンに係わらずにそうです。

ノンクリスチャンの場合は上記のニュース記事にある様に、自分で全て握ってしまいがちで、この様に世間に知れ渡る結果になってしまいます。三年半前のあの衝撃的な秋葉原殺傷事件や、土浦付近、また広島のマツダ工場での殺傷事件も全て、結局自分で問題を抱え込んでしまい、自暴自棄になって事件を引き起こすのです。勿論その背後には、世の支配者が居るのには間違いありませんが。

案外敵の攻撃に晒(さら)されるのを拒否、若しくは今迄と同じ様に生きるか、或るいは本当に主に頼りきり、主の道を歩むのかの二者択一を迫られているのではないかと思うのです。中東情勢は緊迫し、艱難時代が目の前に来ている事は、霊で分かります。その様な状態で霊の戦いを強いられたら、
私達はペテロを筆頭とする弟子達の「主と共に死ぬ」覚悟が出来る筈が無いのです。彼等は肉では本当にそう思っていたと思いますが、実際は逃げ出さざるを得なかった訳です。だからこそ、激しく泣いた訳です。

主のみこころを知りながら行なわないのは、主をがっかりさせるだけでなく、主を信頼していない証拠になります。
「義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令に背くよりは、それを知らなかった方が、彼らにとって良かったのです。彼等に起こった事は、『犬は自分の吐いた物に戻る。』とか、『豚は身を洗って、また泥の中に転がる。』とかいう、諺(ことわざ)通りです。」ペテロ2:21,22
という風には、主に言わせたくないですよね。むしろ、
「キリストは、自由を得させる為に、私達を解放して下さいました。ですから、あなた方は、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられない様にしなさい。」ガラテヤ5:1
との命令があります。また、
「兄弟達。あなた方は自由を与えられる為に召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。・・・私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させる様な事はありません。」ガラテヤ5:13,16
とあります。

私達は聖書=ローマ人への手紙によれば、既に死んだ者であり、罪の奴隷でなくなる為、罪から解放されたと書かれているのを信じています。(ローマ6:4−7)
またこの様にも書かれています。
「あなた方も、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ですから、あなた方の死ぬべきからだを罪の支配に委ねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなた方の手足を不義の器として罪に捧げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなた方自身とその手足を義の器として神に捧げなさい。というのは、罪はあなた方を支配する事が無いからです。」ローマ6:11−14

再度確認をしましょう。罪とは、神から離れ去ろうとする、あらゆる心と体の事を言います。法律に触れるあらゆる罪々もそうですが、むしろ神以外のものを神とする事です。その顕著な例は偶像崇拝です。
イエス・キリストの十字架によって、私達の罪が贖われ、自由とされたのです。

「あなた方はこの事を知らないのですか。あなた方が自分の身を捧げて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、或るいは罪の奴隷となって死に至り、或るいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべき事には、あなた方は、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準(規範、標準)に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。・・・・あなた方は、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷として捧げて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷として捧げて、聖潔に進みなさい。罪の奴隷であった時は、あなた方は義に就いては、自由に振る舞っていました。その当時、今ではあなた方が恥じているその様なものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私達の主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6:16−23

それなのに、私達は記憶がある為に罪の快楽、肉の疼(うず)きに苛(さいな)まれます。それと同時に世の支配者である者の誘惑をも受けているのです。
「私達も以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、色々な欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。」テトス3:3
「この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それを来たらせる人は、わざわいである。」(口語訳マタイ18:7)
「罪の誘惑が来る事は避けられない。しかし、それを来たらせる者は、わざわいである。」(口語訳ルカ17:1)
「人はそれぞれ自分の欲に惹(ひ)かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲が孕(はら)むと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟達。騙されない様にしなさい。」ヤコブ1:14−16

しかし私達は既に死んだ者であり、罪から解放されているのだから、主の霊にしっかりと満たされて、歩んで行きたいですね。

御紹介―人間中心の十字架理解からの解放

  • 2012.02.06 Monday
  • 12:31

クマ郎さんの記事より
http://8125150.seesaa.net/article/249744932.html#comment

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